人はどこまで社会的か

・「りんご」の絵を描いてください
・「灰皿」の絵を描いてください

 周りの人と同じなのはなぜ?

恐らく一人では無人島で暮らしていけない。少なくとも今と同様な生活を送ることは不可能。しかし、一人ではできないことも、他の人と一緒なら可能になる。つまり、私達は人々と共同生活を営むことによって、即ち社会を通じて衣食住など生活に必要なものを手にいれている。逆に言えば社会から切り離されることはたちまち死を意味する。
 例:狼少年の話→生物学的には人、社会的には狼

価値・規範・知識
 しかし、私達が社会に依存しているのは、単に生活に必要なものの調達に関してばかりではない。例えば、何が正しくて何が正しくないか、善悪、真偽(本当と嘘、美醜、などについて私達は何らかの評価の基準を持って生活している。これがいわゆる<価値>である。私達の行動の目標は普通この基準にしたがって選択される。そしてさらにこの行動が具体的にどのように遂行されるべきかを決めている規則が<規範>である。これは普通は法とか道徳とか呼ばれているものである。<価値>や<規範>なしには、人は自分の行動を決定していくことができない。
 この<価値>や<規範>を含みつつもっと広い範囲を指すのが<意味>である。

 例えば、ある社会に於て、以下の価値と規範が存在するとしよう。

「財産は尊いものである」と言う価値
「しかし財産を得るために他人のものを盗んではならない」という規範

この価値と規範の背景には「財産とはどういうものか」「他人のものとはどういうことか」といったことがらに関する共通の認識が必要。

例:私達の社会では土地は私有財産だが、そうでない社会もある。
書物の著作権や土地の使用権といった目に見えないものまで、財産に含めることも可能
意 味

 価値→規範
  認識の堆積=<知識> 
 知識が意味の広大な領域を形成 


 無論、<価値><規範><知識>という区別は分析的な区別であって、実際の<意味>にはそれらが未分化なままに含まれるのが普通である。
 さてここで重要なことは、このような<価値>や<知識>のある部分は、当人にとってそれと意識できないほど身体化されていると言うことである。

例1:近親婚の禁止は、あらゆる社会で普遍的に存在

この禁止を犯すこと=想像するだけでもゾっとする(身体的反応)

人間の生理的な本能とか人間の自然として説明することはできない。
なぜなら→じゃあ、どの範囲の人までぞっとするかを考えてみる

婚姻の許容範囲に関する<知識>だと言うことが分かる
 この知識はあらゆる社会においてほとんど身体的な反応として人々の内部に埋め込まれている。

例2:「殺人を犯す場合に感じるであろう様な恐ろしさ」も同様

価値「人間の生命は何よりも大切だ」→身体化 (切腹:命より家名が大事)

つまり→人間の身体的反応ですら、社会によって時代によって変わりうる。



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