意味体系と世界観

<ちょっと復習>

 価値:行動の目標を選択する(善悪などの)評価の基準
 規範:この行動が具体的にどのように遂行されるべきかを決めている規則(法、道徳など)
 知識:価値と規範の背景にある共通の認識の堆積
 意味:価値、規範、知識などによって形成されている

★重要なこと→<価値>や<知識>のある部分は、当人にとってそれと意識できないほど身体化されていること

(例:近親婚や人殺しは想像しただけでもぞっとするが、ぞっとする条件が存在する)

 このように意味は、我々の外側に価値や知識として所有されているだけでなく、我々の意識を構成し、さらに、意識できないほどの内部にまで浸透し、我々自身を根底的に形作っている。
 世界が無秩序ではなく、一定の形で存在しているように見えるのは、我々がこの意味(眼鏡)を通して外界を見たり経験したりしているからなのだ。
 例1:あるスポーツをルールを知らずに見れば、選手が秩序だって動いているのか無秩序に動いているのかが分からない。(小学生のサッカーとプロのサッカー)
 例2:麻雀牌やトランプ(うまいのか下手のか)
制度の拘束力
 すると、通常我々が世界とか現実とかよんでいるものはいったいなんなのか?

 それらが実体として存在しているのではなく、その「像」でしかないのではないかという見方もできる。(眼鏡に向こうにあるものとこちらにあるものとずれがあるから。)

何がリアルか? 何故リアルか? どうしたらリアルになるのか?この問いについて考えるとき答えが見えて来る。


 世界、現実というものは、私達が意味を与えて初めて作り出される。意味がなければ世界も現実も存在しない。

<小まとめ>
 頭ではなくて、体が感じるようなことでも、じつは何等かの価値や規範、知識にしたがっている。本能といった生理的レベルではない意味がある。私達は、まったく初めてのゲームをルールブックを見て理解できるように、価値、規範、知識といった意味を通して世界、現実を見ている。この意味なしには世界や現実をみることができない。

 例1:テレビ(光の点滅でしかないのに、それを見て泣いたり笑ったりする)
 例2:反転図形(老婆と若い娘)
 見方によって若い娘に見えたり老婆に見えたりする。対象を見る枠組みが、見られた世界を変容させてしまっている。

 例3:デジャ・ヴュ(既視感)
  本当に経験したことがある場合
   @目に映った像に意味付け
   Aそれによって過去の経験が喚起される

  実際には経験したことがない場合
   @目に映った像に意味付け
   Aそれによって喚起される過去の経験がない
   B新鮮に感じる

  デジャ・ヴュの場合(社会学的に言えば・・・)
   @目に映った像にすぐ意味付けできない
   A意味付けが遅れる
   B遅れてやってきた意味が過去の経験のように感じてしまう

→ 映画もテレビも現実の経験も同じ構造を持っていることが分かる
 つまり、対象は意味付けられて初めて現実となる。言い換えれば、我々がみている世界はすべて社会によって意味づけられている。

言葉と制度



制度

  文化的枠組みを作り出しているもの=制度

まとめ

の仕方は社会によって客観的に拘束されている


教養講義(社会学のものの見方と考え方)のトップページに戻る