恋愛の社会史

制度としての反・制度
 前にも言ったように、社会の拘束力は私達の常識の中に強く根をはっている。私達の考え方や感情に至るまで制度によって枠付けられ、飼い慣らされている。
 「それはなんぼなんでも言い過ぎと違いますか。」
 果して言い過ぎだろうか。常識の嘘は、たくさんある。
 16世紀のヨーロッパでの話。ある国王が、早朝、愛人の所から秘かに自分の城へ帰ろうとしていた。国王が教会の前を横切った時、朝のミサを告げる鐘がなった。国王はそれを聞くとミサに参加し、厳粛な態度でお祈りをした。
 現代人は、この話を聞いて、罪深い愛と誠実な宗教心の共存に驚く。そして次の解釈をする。
 @ 教会の鐘の音を聞いた国王に、自分の罪を悔やむ感情が沸き上がって、今犯したばかりの罪を許したまえと神に願った。
 ところがもう一つの解釈がある。
 A 王の愛情も信仰心もどちらも内発的で素朴で誠実だった。
 現代人は前者の解釈をしたがる。しかし、実際は後者のとおり、現代人にとっては矛盾する感情がほとんど同時に存在した。
 つまり、社会や時代によってものの感じ方、感情のあり方は異なるということである。孝行や忠義などの感情について考えてみれば分かりやすいだろう。今、どれだけの人が、主人や家のための「ハラキリ」を当然と感じられるだろうか。
 もっと身近な例をあげて考えてみよう。

恋愛と恋愛物語
 人は誰でも、一定の年齢になれば特定の異性に恋愛感情を抱くもので、そういう事がない方がかえって不自然だと考えてしまう。ところが、それは決して自然なものではない。確かに何等かの形の異性に対する愛情はあらゆる社会に見いだすことが出来る。しかし、恋愛となるとそうはいかない。結論を先に言っておくならば、実は恋愛という感情は、たかだか12世紀、中世ヨーロッパの宮廷・騎士社会において生まれ、それが社会全体に浸透しはじめるのは、そのずっと後だと言われている。日本でも明治以降だと言われている。
 これは恋愛とはどういうものか、その価値・規範について考えみれば、理解できる。恋愛とは身分や家柄に束縛されない愛情である(と、ここでは定義する。)。打算や虚栄にとりこまれないのが恋愛である。中世ヨーロッパの恋愛小説の中で描かれるのは、純粋な情熱が世俗的な打算や虚栄に打ち勝つという物語である。(現代はどうかは分からないが・・・)
 「そういう感情は昔なかったの?」前近代社会でも恋愛に似た感情があったかも知れない。しかしそこに打算や虚栄が入り交じっていても恐らく誰もそれを非難しなかっただろう。でも、近代社会においては、それは恋愛とは呼ばれず非難の対象となる。前近代社会では、打算や虚栄、世間の目に打ち勝つ程の感情は育たなかった。

何故、前近代社会には恋愛感情がなかったのか?
 恋愛も欲望だが、俗っぽい人の欲望とは違う。
 @俗人の欲望:俗っぽい人は他の多くの人が欲しがるものだけを欲しがる。自分の自尊心に基づいた欲望しか持たない。どういう事かと言うと、自分が損をしてまで欲しがることはしないし、他人の評判を落としてまで欲しがることもしない。つまり、この欲望は本当の自分の欲望ではなく、他人の欲望の模倣、真似でしかない。
 Aしかし、恋愛の情熱による欲望はこれらを越えてしまう。例えば、恋愛の情熱は、世間の目など気にせず、伝統的な村の掟を破ってでも欲望する。

 ここで見えて来るのは、要するに、他人の目を気にすることで弱々しい欲望しか持てないことはよくないことで、自発的にそして自律的に強烈に欲望することはいいことだという「欲望のモラル」だ。前近代社会にはこのようなモラルは存在しなかった。なぜか?
 この「他人の目に従う」前近代社会(伝統的な村をイメージすればよいだろう。)とは、人がどのように行動すべきか(行動様式〜年中行事から挨拶の仕方まで)が、伝統(というマニュアル)によって決っていた社会である。そこでは、自分の人生や行動について迷いや不安はなかった。(ケーキというとショートケーキしか知らない人には、ケーキを買うときの迷いなど想像もつかない。)伝統によって行動が決定されている人にとって、伝統という行動基準は、身体化され、ごく当り前になっている。(これは既に述べた通り)そのような社会では、世間体を気にすることや、親の言うことを聞くことは当然で、それを無視することなど考えもつかないのである。それ以外の行動様式を知らない。だから、自律的な感情が生まれなかったのではないか。
 このように非常に安定した変化の少ない社会では、人々は伝統にさえ従って行動すれば、問題は起こらなかったし、それは当り前で疑う余地のない事であった。ところが近代社会になると、社会状況はどんどん変化する。すると人々は伝統的な制度に従っていたのでは適応できなくなり、臨機応変に自らの行動を決定しなければならなくなった。
 このような変化があって初めて、回りの人のいうことに従うことはよくないことで、自律的に行動することがよしとされるモラルが生まれるのである。このモラルなしに恋愛は定義されない。つまり、このモラルの裏返しが、身分や家柄に束縛されない、打算や虚栄にとりこまれないという恋愛の定義になる。
 言い換えれば、近代社会が要求したの人間とは、制度や他人の意見(長老や親)、即ち伝統に従うのではなく、どう行動すべきかを自らの良心のみにしたがって自律的に決定する主体性を持った個人で、このような人間にしか恋愛はできないというわけである。
 しかし、ここで見落としていけないことがある。確かに恋愛は、伝統的な制度から自由である。同時に、いま述べたように、人間の本質に属する感情でもなかった。恋愛が男女関係において真実ならばそれを信じるための努力は必要ない。しかし虚構を真実だと信じるためには、その虚構を具体的な行動や人間関係のパターンの中に現実化する、即ち正当化する制度が必要である。
 例えば、男が自分は偉いと確信し続けるためには、絶えず自分を賞賛してくれる女が必要であるように、恋愛が真実だと信じ続けるためには、それを現実的に支えるための制度が必要である。恋愛を支える儀礼的制度は、恋愛結婚である。つまり配偶者を親と言った自分以外の人が決めるのでは、いくら恋愛をしても結婚には結び付かない。しかし、そうではなく自分自身で決めることが制度的に可能である時、恋愛は制度的な裏付けを得ることになる。
 ところが、今日、恋愛結婚をしたがゆえに自由な独自の主観によって異性と結ばれたと信じることが出来るのはよほどおめでたい人である。恋愛結婚の多くが実際には類似した階層・収入・教育を背景として行われている事実がある。つまり、いま、恋愛の虚構性に皆が気付き始めたわけである。そこで、人々はますますそれを隠す制度を必要とする。そのために人々は離婚をし、再婚をする。これは愛情による結婚を否定しているのではなく、よりよい結婚を求めて離婚しているという側面が強いと言われている。愛に確信が持てないからこそ、よりよい愛を求めるのである。
 このように、人々は伝統的な社会に比べると自由にはなったが、それは相対的なものである。伝統的な社会の制度より近代社会の制度の方が許す範囲が広くなっただけのことである。言い換えるならば選択の幅が広がっただけである。しかし人々は、自分たちは自らの主体性によって人生を生きて行くことが出来るようになったと信じている。実は、そう信じさせるのが近代社会の制度なのである。宗教を信じるように、人々は自らの主体性を信じている。その意味では近代社会は、個人の自律性という新しい宗教を崇拝する社会だと言えよう。

まとめ
 恋愛が、人間の本質的な感情であると信じられているように、近代社会では、制度に拘束されない個人の主体性、自律性が確立されているように信じられている。しかし、恋愛が近代社会の制度に維持されているように、我々のこの個人の主体性、自律性も決してまったく自由なものではなく、やはり制度に拘束されているのである。


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